かぶとたいぞうです。
縁起でもない話ですが、自分が死ぬ時のことを想像するのはいいことだと思います。
生というものは死を意識しないと存在しません。死を意識しない者にとって生きているということは意味のないことなのです。死を意識しない者は、自分がいつまでも生きていられると勘違いしているからです。
死を意識して生を感じる
身近な人の死に際して、死というものを意識し、自分もいつかは死ぬことを知り、初めて生を意識し、生きていることのありがたさを感じるのだと思います。
さて、私は自分が死ぬ時に何を思うか。何をしたいと思うか。
読者の皆さんも一緒に考えてください。
感情移入して死ぬ時を思う
想定はどうでもいいのですが、例えば、自分の死期が近づいたとはっきり分かったとか、癌の告知を受けたとか、なんかそんなことを想像して感情移入してください。本当に自分は死ぬのだと心から思ってください。
私は自分が死ぬ時に何を思うか。
私が死に際して思うこと
おそらく、今までのなにげない毎日が幸せだったと思うでしょう。
ハワイに行ったことでも、ススキノで豪遊したことでもありません。何かの表彰を受けたことでも、難しい試験に合格したことでもありません。いい車に乗ったことでもいい家に住んだことでもないでしょう。
ただ、日常が幸せだったと思う
ただ、毎日のなにげない日常の生活が幸せだったと思うはずです。
自宅の窓から木を見て、鳥が飛んでくるのを見て、風に吹かれて、お茶を飲んだ日常。
畑でトマトやキューリを育てて、収穫を喜んで美味しい料理を作った日常。
いろいろな日常
たまに遊びに来た孫と一緒に、近くの川で釣りをしたりゲームの話をした日常。
パタヤのアパートのテラスで大きなヤシの木を見ながら食事をしたり、隣のイギリス人が冗談を言って話しかけてくる日常。
散歩をする日常。親しい人と会話する日常。ブログを書く日常。ご飯を作って食べる日常。
そんな日常を懐かしく思い、幸せだったと心から思うような気がします。
死ぬ前に何をしたいか
余命幾ばくもないと分かった時に私は何をしたいか。
おそらく何も特別なことをしたいとは思わないでしょう。
以前、死期の迫った老人2人がやりたいことをリストアップして1つ1つチャレンジするという米国映画を見たことがありますが、私はそんなことをしたいとは思いません。もっと静かにゆっくりと死を迎えたいです。
特別なことはしたくない
みんなを集めて看取ってもらいたいなんて思わないと思います。
特別なところへ行ったり、特別なものを食べたり、特別な人と会ったり、特別な体験をしたいとも思わないでしょう。
ただゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐きたい
ただ生きている最後の一瞬までゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐いて、生きていることを意識したいはずです。
場所はどこでもいいのですが、できれば窓から木が見えたり、小鳥の鳴き声が聞こえたり、いい風が入ってくるような場所が最高です。
そして意識が次第に遠のいて、生きる実感と喜びを感じながら死ぬのだと思います。
死ぬ時に生きていると実感する
死ぬのに、生きる実感と喜びを感じるとは矛盾しているようですが、人間は死ぬ間際になって生きているということを一番感じるはずです。
今はまだ自分が死ぬような気があまりしないので、生の実感がわきません。だから時々死について考え、今生きているという実感と喜びを感じたいと思うのです。
息を吸い、息を吐くことのできる喜び
息を吸い、息を吐くことのできる喜びです。
私はやりたいことをすべてやってきたので、そう思うのかもしれません。
やり残したことがあるなら、生きている今のうちに
やり残したことがあって、どうしても気になるのなら生きている今のうちにやっておいたほうがいいと思います。
私にはやっている最中のことはありますが、やり残したことは一つもありません。
思いついたらすぐに実行するからです。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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