かぶとたいぞうです。
ひとり閑(しず)かに隠居ぐらしをしていると、最初は寂しく思うこともありますが、そのうち慣れてきて、だんだん楽しくなってきます。
吉田兼好の徒然草には「身を閑(かん)の中におく」とか「心を閑(かん)の状態におく」という表現がよく出てきます。
身を閑(かん)の中におくとは
閑は「しずか」とも読みますが「静か」とは少し違います。
「静(しず)か」は周りが静か、つまり音がないという意味であり、「閑(しず)」かは心の中が落ち着いて穏やかであるという意味なのです。
芭蕉が読んだ句も「閑かさや」
だから芭蕉が読んだ句も
「閑かさや、岩にしみ入る蝉の声」
なのです。
セミの声が「静か」なわけがありません。芭蕉の心の中が「閑か」で、自然と一体になっているのです。だから岩にしみ入るのだと思います。
私は陽にあたると閑の状態になる
私は朝起きて太陽の光にあたっていると身を閑の中に置くことができます。
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それだけで十分幸せです。生きていてよかったと思うし、生を楽しむことができます。忙しく歩き回ったり、いろいろな人に会ったり、お金を稼ごうと思ったりしません。
そういうことはもう十分にやったので、今は閑かに隠居ぐらしを楽しみたいのです。
身を閑の中において生を楽しむということ
朝日を浴びて読書をし、美味しいコーヒーを飲んでから畑仕事や庭仕事をし、ブログを書き、散歩をして、美味しいものを自分で作って食べ、夕日を見ながら酒を飲む。
これ以上の幸せはありません。毎日が生きている喜びに満ちています。自然と一体になったここちがします。
去年の今頃はパタヤに一人でいた
昨年の今頃はタイのパタヤにいました。
パタヤビーチとその前の遊歩道での散歩禁止、スーパーや食品店以外の営業禁止、夜間外出禁止、酒類の販売禁止、パタヤ地区から外への移動禁止。
新型コロナ対策のあらゆる禁止の中、ひとりアパートでひっそりと暮らしていました。
そんな生活に慣れたので、今札幌の郊外の家で一人で暮らしていてもぜんぜん寂しくありません。人間は一人でいることに慣れるようです。
対人依存症の人は
世の中には一人でいるのが耐えられなくて、すぐに人恋しくなって、人に会っては心を乱し、必要以上に他人に合わせたり他人に振り回され、いつもケンカやトラブルばかりで、それなのにやっぱり孤独は耐えられないという人がいます。一人でいると気が狂いそうになると言うのです。
自分というものがない人です。依存症の人です。
人は誰でも最後はひとりになる
そんな人もいつかは否応なしに一人になります。一人にならざるを得なくなります。それが人生であり、人生の最後なのです。
だから私達は今のうちから、ひとりで閑かに人生を楽しむことを覚えなければならないのだと思います。
コロナ禍はいい訓練の機会だと思います。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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