かぶとたいぞうです。
「孤独死」を恐れる人がいます。誰も知らないうちにひとりで死ぬのが辛いと言います。死後、何日も経過して腐乱した姿を発見されるのは、尊厳に関わるという人もいます。
私はそうは思いません。
ひとりで死ぬのが寂しいという人
ひとりで死ぬのが寂しいという人は、きっと生きている間も誰かと一緒にいたい人なのでしょう。朝目覚めた時に、誰かがそばにいないと寂しい人なのでしょう。だけど、いつも誰かがそばにいるとは限りません。だから、せめて死ぬ時ぐらいは誰かに看取られて死にたいのでしょう。
私はまったく逆です。ひとりでいるのに慣れてしまいました。誰かと一緒にいるより、ひとりでいる方が楽です。死ぬ時もひとりで死ぬ方が気楽です。
尊厳
腐乱した姿を人に見せるのが嫌だ、尊厳に関わる、という考えもありません。
人は死ぬものです。死ねば腐乱するのは当たり前です。それは自然です。
昔の高僧は死期が近づくと自ら穴を掘り、穴の中で座禅して何も飲み食いせず、ひとり悟りの境地で自分の体が腐乱するのを待ち、ミイラ化して「生き仏」になったと言います。どこが尊厳に関わりますか。むしろ尊厳そのものです。自殺でもありません。
昔のアメリカインディアンは死期が近付くとひとりで山に入り、生きられるだけ生きて、最後は獣の餌か草木の養分になったそうです。この行為にも尊厳を感じます。
老人病院
私は以前1ヶ月ぐらい入院したことがあります。入院先はいわゆる「老人病院」で、死にそうな老人がいっぱい入院していました。
今は老人をいっぱい入院させても病院は儲からない仕組みに変えられましたが、昔はけっこう儲かったので長期入院の老人がいっぱいいました。
老人たちは口や鼻にチューブを通され、話すこともできず、ただ唸っていました。看護師も介護士も、まるで物を扱うように老人たちを事務的に作業的に扱い、汚物を処理していました。生きてさえいれば年金が入るからか、たまにしか見舞いに来ない家族は、とにかく延命を願っているようでした。老人たちは時おり発作的に暴れますが、私には「早く殺してくれ。楽にしてくれ」と言っているように感じました。
どうして病院に入ったのか
死にたいのなら、どうして病院に入ったのか。病院に入ったら死にたくても死ねなくなるに決まっているじゃないか。
病院は劣悪な環境でした。トイレ補助が面倒だからなのか、全てオムツに垂れ流しでした。のどに痰がからんで苦しそうでしたが、介護士は夜中に1回しか痰を取り除きに来ませんでした。夜中に徘徊して看護師さんに怒られている老人もいました。手のかかる老人は薬で眠らされていました。うつ病の薬で常にボーとした状態にさせられた老人もいました。何を言っても「認知症」扱いされた老人に、まともな会話などありませんでした。
病院に尊厳などない
こんな老人の姿に尊厳を感じますか?私は微塵も感じませんでした。
今は1ヶ月を越える入院には点数がつかないので、老人ホームに入らない老人は病院、老健施設、グループホームなどを繰り返し繰り返し移動しているようですが、環境はどこも同じです。少子高齢化で介護の担い手がいないのです。きっと私が体験した老人病院より、もっと劣悪な環境になっていると思います。放置と無視が当たり前になっているような気がします。でも、「認知症」と認定された老人には訴える権利もクレームを言う権利もありません。家族が代わりに抗議しても「本人はちょっと認知が入っていますからねぇ」とうそぶかれるだけです。
私はひとりで死ぬ
私は人に気を使う性格なので、ひとりの方が楽なのです。孤独死は辛いという人がいますが、私は死ぬ時ぐらいはひとりでゆっくりと落ち着いて死にたいです。人と一緒だと疲れるから、死ぬ時ぐらいはひとりで楽に死にたいです。遠慮ではなく本心です。
私は高僧ではないので「生き仏」にはなれませんが、せめてきれいな景色を見ながら椅子に座って死にたいです。札幌の自宅の庭で、誰にも言わず、ひとりで庭木を見ながら死にたいです。
ゴッドファーザーⅢのエンディングのアルパチーノのように。
大丈夫
いざ死ぬ時になると怖じ気づくかもしれませんが、たぶん大丈夫です。自分が望むことは、全て実現してきた私ですから。
ちなみに現在の私は健康で、今のところ死ぬような心配はありません。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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