かぶとたいぞうです。
人に何か言われてカーッとなったり、いつまでも根に持つのは、修行が足りない証拠、子供の証拠です。笑い飛ばせる心の広さが必要です、特に歳をとれば。
かく言う私も、実はすぐカーッとなったり、いつまでも根に持つタイプです。直そうと思っておりますが、なかなか直りません。
若い頃はもっとひどかった
それでも若い頃よりは少しマシになりました。今でもカーッとはなりますが、手は上げません。そしてなるべく気分を変えようと努力します。努力しても無理な時は、その場を離れます。そして忘れようとします。
ところが、歳を取れば取るほど頑固になり、怒りっぽくなり、ちょっとしたことにいつまでも執着する人がいます。
本当の意味での自信、自尊心が乏しく、見かけのプライド(=見栄)や、負けん気ばかりが強い人です。ちやほやされて育った人です。修行の足りない子供です。
孤立する
そんな人は回りに人が寄り付かなくなり孤立します。厄介者扱いされます。
「あの人は悪い人ではないんだけど、一緒にいても面白くない」
「何か言うとすぐ怒るので冗談も言えない」
「厄介だから寄り付かない方がいい」
そう思われるのです。
本人は
ところが本人はどう思っているか。
「馬鹿にバカにされて黙っていられるか」
「なめられてたまるか」
「俺の恐ろしさを見せてやる」
「理詰めで論破してやる」
このように意固地なのです。ますます人が離れていきます。
私も
書いていて私も切なくなります。自分や身内のことを言っているようだからです。
私の父も弟も、そんなタイプなのです。井の中の蛙で、内弁慶で、なんの役にも立ちません。なのに自分が一番偉いと思っているので怒りっぽいのです。
私はそんな自分に早く気づいて良かったです。社会で揉まれたから気づいたのです。そして少しずつ直してきました。
今思えば、母は逆で、どんなことを言われても笑い飛ばす人でした。だから成り立っていたのでしょう。私も母に似れば良かったです。
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意固地でも押し通そうと思えば押し通せるが
私は孤独を愛す旅人です。精神的にも経済的にも独立した自由人です。他人からどう思われても気にしません。
だから意固地でも押し通そうと思えば押し通せます。
しかし、それとこれとは別だと思います。
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水戸黄門
水戸黄門を見ていると勉強になります。
水戸光圀は確固たる地位と潤沢なお金を持ち、自由に全国を旅していますが、決して偉そうでもなく意固地でもありません。
誰の話しも真剣な眼差しで聞き、自分に非があれば素直に謝ります。だから人々に愛され、助さん、角さん、うっかり八兵衛、弥七など若者にも慕われるのです。
私は水戸黄門のような人になりたい。
歴史上の徳川光圀
水戸黄門はドラマであり脚色かもしれませんが、それでも東野英治郎さんふんする初期の水戸黄門は、今でも私の中ではヒーローであり尊敬する人物なのです。
歴史上に実在した水戸藩主徳川光圀の座右の銘。
「我、ただ足ることを知る」
今や私の座右の銘にもなっております。
「足ることを知る」(「足るを知る」とも)という考えかたと、自尊心、延いては寛容の心、執着を捨てる心は通じるものがあります。
案外、歴史上の水戸光圀も寛容で素直な人だったかもしれません。
足ることを知ったものは寛容になる
足ることを知ったものは寛容になり、人の言葉にいちいち腹を立てたり、気に病んだり、根に持ったりしなくなるかもしれません。
私もかくありたい。
私は足ることを知ったはずなのに、そこにまでは至っておりません。まだ修行が足りないのです。
共に修行しましょう
全国の怒りっぽい皆さん、共に修行しましょう。
寛容な心を持ち、細かいことに腹を立てたり、根に持ったり、執着しなくなる日が来るまで。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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