入院して初めて分かった高齢者医療・介護の実態と尊厳死に関する考察

かぶとたいぞうです。

実はちょっとしたことで数日間病院に入院しておりました。既に回復し、まったく心配は要りません。

それより、久しぶりに入院したおかげで、高齢者をとりまく現在の医療と病院の実態を垣間見ることができました。

病院のベッド大



常日ごろ健康には気をつけておりますが、私もある程度の年齢です。高血圧や動脈硬化など、一般的に高齢者におなじみの症状に悩まされます。今回は久しぶりに検査もかねて入院しました。胃カメラや大腸カメラ、CTスキャンなども含め、じっくりと体を診てもらい休養しました。



痴呆が進んだ後期高齢者だらけの入院病床

今回私が入院した病院は、札幌にある地域総合病院でした。その病院は高齢者の受け入れを積極的に行なっているので、痴呆の進んだ高齢者や、要介護高齢者がたくさん入院しています。そんな中で私も数日間一緒に寝起きしました。

入院して分かったのは、

  • 入院病棟には80歳を超えるような高齢者ばかりが入院していること
  • 看護師や介護師の数が圧倒的に足りていないこと
  • 看護師や介護師がかなり疲れていること
  • そのため、患者の扱いが雑になっていること

などです。

老人の看護や介護は手間がかかります。見ていて看護師や介護師が気の毒になるくらいです。

ひと晩じゅう、患者の痰(たん)をとり、排便したおむつを取り替えます。臭いし重労働です。痴呆が進んで夜中に騒ぐ患者もいます。歩き回る患者もいます。注意しても聞いてくれません。患者には分別がないのです。

2年前と比べると年寄りだらけの病床

実はこの病院には2年前にも入院しています。その時に比べて入院患者に占める後期高齢者の比率が高くなっています。

2年前も80歳を超えるような老人が多かったのですが、それほど高齢でない患者も2割くらいはいました。ところが今は80歳を超えるような患者ばかりです。100歳の患者もいました。2年の間に年寄りばかりになりました。

今回、若い患者は私1人でした。たったの1人です。看護師も介護師も珍しがっていました。病院の入院病棟では世間一般の高齢化以上に高齢化が進んでいるのです。入院病棟では日本の将来の縮図を見ることができます。



つらくて辞めていく看護師

それともうひとつ気づいたのですが、2年前にいた看護師はほんのわずかしか残っていませんでした。聞くと2年間も勤務している人はかなり長いほうで、つらくて次々と辞めていくのだそうです。

喉に詰まった痰を取りながら「痰を取って楽になろうね。痰を取ったらまたゆっくり寝られるよ」と友達のように患者に話しかける若い看護師の横顔に笑顔はありません。どうせ、患者は何を言っても理解していません。

痰を取ったら楽に寝られる。寝ているうちにまた痰がたまる。そしてまた痰をとる。2時間に1回。その繰り返しです。そんなことを何ヶ月も何年もやるのです。

病状が一時的なもので、痰を取っているうちに回復するのならお世話の甲斐もあると思います。しかし、ここではほとんどの場合、ただ患者を延命させるだけのために痰を取っているのです。少しでも長く息をさせるためだけに痰を取っているのです。

痰を取っている看護師は優しい言葉をかけながらも顔は無表情です。「何のために痴呆老人を活かしておく必要なあるのか」、といった感じで作業しているようにも見えます。「痛いねぇ。がんばってねぇ」と言いながらも、作業は雑で機械的です。流れ作業です。1人の患者にそんなに時間をかけていられません。痰を取るのを待つ患者は何十人もいるのです。何も考えずに、何も思わずに次々と作業をしなければこの仕事はできないのだと思います。

患者が回復するという達成感も喜びもありません。患者が亡くなったらまた別の患者が運び込まれるだけです。つらい仕事です。

たまに仕事をしながら患者に対してキレる看護師もいます。何を言っても判らない患者相手に暴言を吐きます。でも、ひどい看護師だとは思いません。時々キレながらもよくやっていると思います。私ならできません。

そう言えば、時々ニュースで、老人に暴力をふるったり、殺したりする介護ヘルパーの話題が報じられます。以前はどうしてそんなことをするのかさっぱり訳が分かりませんでした。今は少しだけ分かります。看護師の場合は暴力まではふるいません。暴言をはいたり愚痴を言うだけです。それでどうにか済んでいるのです。

そして、その看護師もいずれ疲れ果てて病院を辞めていくのです。

老人も辛いでしょうけど、若い看護師もかわいそうです。老人のために若い人が犠牲になっているように私には見えました。

これが世界一の長寿国、人生100年時代の日本の実態です。

私は自分の尊厳を守って自分の意思で死にたい

これはとても重いテーマです。

言いづらいことだけど、私はそんなになってまで生きたいとは思いません。

早く尊厳死を認めて、意識のあるうちに、自分で判断ができるうちに、延命拒否の決断をし、その決定が法的にも公的にも認められる時代になって欲しいです。世の中にはそれを望んでいる人はたくさんいると思います。

そうすれば年金の財源不足問題も一発で解決します。

隣のベッドの患者のお見舞いに来ていた老夫婦が、小さな声で話していた言葉が印象的でした。

「早く楽にしてあげたいけど、そうするとあとで後悔するんだよなぁ。お母さんの時のように。でも、苦しんでいる姿を見ながらこのままにしておくのも、これまた後悔するんだよなぁ。後になってから」

患者の家族は延命を拒否できません。延命を拒否したら「冷たい家族だ」と言われるからです。

だから自分の意識がはっきりしているうちに、自分自身で自分の死を決められるようにするしかないのです。

私はまだ若いし健康だから、そんなことが言えるのかもしれません。しかし、私は自分の尊厳を大事にしたいです。無駄に長生きしたくないです。

治療によって回復するならどんな辛い治療でも受けましょう。でも、回復の見込みも無いのに、しかも自分の意識もはっきりしないのに、ただただ辛い思いをさせられて無理に生かされるのは嫌です。

むかしは長生きする老人が珍しかったから、大勢で老人を大事にしたのです。意識が無くなってもみんなで手厚く介護したのです。

ところが、今は面倒をみなければならない老人が多すぎます。家族も病院の現場も、介護施設で働く人たちも、もう疲れ果てているのではないでしょうか。だから扱いも雑になるのだと思います。

日本の数少ない若者を犠牲にして、年金の財源を使い果たして、医療費を無駄に使って、自分の意識の無いまま、無表情な若い看護師に2時間おきに痰を取ってもらう。排便の始末までしてもらう。それで長生きするのは私にとって死ぬよりつらいことです。

これは重いテーマです。でも大事なテーマです。みんなが避けるテーマですが、本当は避けられないテーマです。

この問題は時間をかけて一緒に考えていきましょう。私たちにはもう少しだけ時間があります。

ごきげんよう。


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著者かぶとたいぞう拝。


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