かぶとたいぞうです。
私は神や仏に祈りません。
中学生の頃までは祈っていましたが、やめました。神や仏にいくら祈っても、何も手に入らないことが分かったからです。何も叶わないことが分かったからです。諦めました。
今の私にとって、神仏は感謝の対象であって祈りの対象ではありません。
神仏に手を合わせないのか
札幌の家の仏壇にも神社仏閣にも手を合わせます。ここパタヤでも色々なところにまつられたブッダ像や諸々の神に手を合わせます。手を合わせて何をしているのか。日頃の健康や幸せに感謝しているのです。何も祈りません。
そもそも努力もせずに神仏に祈って願いを叶えようなんて図々しいです。祈ったぐらいで願いが叶うなら誰も苦労はしません。祈る暇があるなら、ひたすら努力するべきです。
祈るより努力
例えば「広くて立派な家に住みたい」と願うなら、家を建てるのにお金はどのくらいかかるのか、頭金はいくら必要かなどを調べて、目標を立てて少しずつ貯金をするべきです。祈る時間があるならお金を稼ぐべきです。いくら祈っても「広くて立派な家」は絶対に手に入りません。
よく「絶対なんてことはない、どんなことにも少しは可能性はある」と言う人がいますが、祈りに関してだけは、絶対に叶わないと断言したいです。祈ったぐらいで手に入ったり、願いが叶ってはならないのです。図々しい人間がもっと図々しくなってしまいます。人間は努力しなければなりません。何事も必死に努力して手に入れるのです。奇跡は起きません。奇跡と言う言葉自体が欺瞞に満ちています。人を騙したり組織に勧誘する為の手段です。
個人の努力だけでは手に入らぬもの
「どんなに努力しても、個人の努力だけでは絶対に手に入らないものなので祈っているのだ」
そんなことを言う人もいそうです。
でも、個人の努力では絶対に手に入らないものを手に入れたいなんて、やっぱり図々しいです。私なら素直に諦めます。自分だけが特別なわけはありません。
なぜなら
だって個人の力では絶対に手に入らないものなら、奇跡が起きるか、みんなにも動いてもらわないとならないはずです。世の中を変えるとか。
自分のために奇跡を求めたり、他人を動かそうなんて、やっぱり図々しいです。自分勝手な人間です。自己中心的過ぎます。
自分をなにか特別な存在だと勘違いしていそうな人です。
私はひたすら努力する
私は普通の人間です。特別な存在ではありません。無理なものなら最初から諦めるし、可能性があるならひたすら努力します。そしてやっぱり私と同じようにひたすら努力するタイプの人間が好きです。
努力してうまくいったときは神仏や周りの人たちに感謝し、お礼を言います。うまくいかなかったときは自分の努力が足りなかったと反省してさらに努力します。
祈る暇など1秒もありません。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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