かぶとたいぞうです。
昔から道を求める者は世俗を離れ、ひとり山中に暮らして自分との対話を楽しみました。
世間ではそういう人を「世捨て人」とか「隠者」と言ったりしましたが、別に世を捨てたわけではありません。
自分の生きる道を本気で求める
自分の生きる道を本気で求めると、世俗が鬱陶しくなるのです。仕事仕事と忙しく駆け回っていては世事に翻弄されるだけで何も考えることができないのです。
だから求道者(ぐどうしゃ)は昔から寺や山の庵に隠居して、自然と共に暮らしながら森羅万象に想いを馳せるのです。そして人はなぜ生きるのか、自分はどう生きるのか、自分は何者なのか、人間とはなんなのか、自分はどう死ぬのか、などを考えるのです。
たまの話し相手
たまの話し相手は古典です。いにしえの聖人と友達になって会話をするのです。
私であれば、孔子、孟子、老子、荘子、司馬遷、王陽明、吉田兼好、鴨長明、佐藤一斎、などです。いい話し相手になります。
もっとも昔の書物を読み、時々本を伏せてひとり考え、著者と会話しているかのような妄想をして、一定の答えが出たらさらに本を読み進めるというだけなのです。しかしそれが実に楽しいのです。
私の書棚
札幌の私の家の書棚には、そんな本がいっぱいあります。最近はパタヤにいる期間が長いので少しずつパタヤに持って行こうと思います。
今回パタヤには徒然草と菜根譚を持って行きます。いずれも読みやすいし、一章一章が短いので、ちょっとした時間に思い付きで読めます。自分との対話のヒント、ガイダンスになります。
ひとりの時間を大切にする
私は別に山中に住んでいるわけではありません。でも、ひとりの時間を大切にしています。札幌でもパタヤでも、部屋やテラスでひとりでいる時間が多いです。
寂しいことなんてありません。むしろひとりが楽しいです。
テレビは観ない
札幌でもパタヤでも、テレビなんてまったく観ません。テレビを観ていたら、せっかく断った世俗とまた関わることになってしまいます。まったくつまらないです。
株取引に関係するようなニュースや情報は、必要なときにインターネットで見ます。
リアルで人と会う
たまに生きた人間と会うのは楽しいです。一緒に酒を飲むのも好きです。でも、人とべったりくっついていたら自分との対話の時間が減ります。だから人と会うのはたまにでいいです。
しかも本当に会いたい人としか会いません。しかたなく付き合いで人と会う時間ほど無駄な時間はないと思っています。
私がひとりでいるのは
私が世俗を離れてひとりでいるのは道を求めているからです。世を捨てたわけではありません。
当然寂しくはありません。むしろ楽しいです。
私はこれからも、こんなライフスタイルで行くと思います。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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