「思い通りの死に方」(中村仁一、久坂部羊)に出てきた至言「我々は断崖の前に目をふさぐものを置いて」

かぶとたいぞうです。

昨日に引き続き、また「思い通りの死に方」(中村仁一、久坂部羊)からの引用です。

あまり引用しすぎると著作権の問題で訴えられるかもしれませんが、本の宣伝にもなりますので勘弁してください。



パスカル

(以下引用)

「人間は考える葦である」で有名なパスカルに、こんな言葉があるんですよ。

「我々は断崖の前に目をふさぐものを置いて、安心して崖に向かって走っている」。

目の前に危険があるのに、それを直視せずに偽りの安心感に浸りたがるのが人間だということでしょう。もう400年近く前からこんなことが言われているのに、まだわからないのかと、情けない気分になります。

(引用以上)

私の知らなかったことば

恥ずかしいですが、初めて聞いた言葉だったので調べてみました。

私が理解した内容を、私なりの言葉で分かりやすく説明すると こうです。

「我々人間は断崖(死)に向かって進んでいるが、 断崖絶壁を見ると怖いので、そこに視界を遮断するような壁のようなもの(仕事、遊び、ギャンブル、社交などの「気晴らし」)を置いて意図的に目をふさぎ、断崖が見えないようにして、偽りの安心感に浸りながら死に向かって走っている。

まさに至言です。恐れ入りました。



死を直視して準備する

私は至って健康ですが、以前から死というものを意識して、 時々人にも話します。ところが相手によっては「縁起でもない」「死ぬ話はしないでくれ」と言って嫌がる人もいます。

私は仏教徒です。そもそも仏教というものは死ぬための準備の勉強だと思っています。

私たちは物心がついた時にはすでに生きていたので、「生きている」という実感があまりありません。死を意識して初めてその対比としての生を意識するのだと思います。ですから、死を考えることは生を考えることと表裏一体なのです。それを教えてくれたのが 仏教でした。

多くの人は死を怖がる

ところが 仏教徒にも死ぬ話を嫌う人がたくさんいます。怖いから目をふさいでいるのでしょうね。

だから私は自分の死についての考察や問答は自分自身の心の中の対話で行なってきました。死の話は忌み嫌われるものだと思っていました。

しかしこの本を読んで、自分の死を直視して心の準備や覚悟を決めておくことは、 消して間違っていないし、 むしろ当たり前のことだということが改めて確認できました。



私は死を恐れない、 とまでは言えない

私は死を恐れない、 とまでは自信を持って言えません。いざとなったら怖気づくかもしれません。 でも、だからこそ今のうちに考えておきたいのです。何の準備もなく死を迎えたら、おそらく混乱して我を失うと思います。

この本はそういう意味で大変参考になります。

中村仁一さんもそうですが、久坂部羊さんの言葉にますます惹かれました。

9月に新しい本が出るようですが、私はその前にパタヤに移動するので、その1つ前の本を早速 Amazon に頼みました。

同じ人の本を3冊も連続で読むのは初めてです。それだけ私の心をつかむものがあるからです。

ごきげんよう。


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著者かぶとたいぞう拝。


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