映画ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ:ゴミ収集車、最後の笑顔の謎

かぶとたいぞうです。

映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を久しぶりに見ました。



最初に見たのは、私が20歳代前半のころです。映画館で見ました。とてもいい映画で強烈な印象を受けました。



生ゴミ回収車と最後の笑いの意味がずっと判らなかった

ただ、見た後に疑問に思ったシーンがいくつかありました。最後のほうに出てくる生ごみ収集車は何だったのか。まさかあれにベーリー長官が飛び込んで自殺したのか。それと映画の一番最後に見せるヌードル(ロバート・デニーロ)の満面の笑顔はどういう意味なのか。

あれから35年。映画のことはすっかり忘れていましたが、先日たまたま映画「ゴッドファーザー」を久しぶりに見て、若いころのロバート・デニーロも久しぶりに見て、ワンス・アポンのことを思い出したのです。

で、さっそくビデオレンタル店で借りてきました。

見てみると、私がかつて映画館で見たワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカより少し長いのです。前に見たときには入っていなかったと思われるシーンもあるのです。DVDのパッケージを見ると「完全版」と書かれています。

調べてみると、セルジオ・レオーネ監督が最初に作ったワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカは何と6時間もあり、それを削って削って3時間程度の公開版にしたそうです。ところが削りすぎて評判が悪かったのでその後この「完全版」が作られたようなのです。

35年ぶりに見たワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ。久しぶりに見てもやっぱり面白い映画です。4時間近い映画ですが、あっという間でした。

いみじくも、映画の舞台も彼らが20歳代前半の時代とその35年後の60歳ちょっと前の時代が交錯するのです。

35年前に映画館で見た私も当時は20歳代。まるで昨日のことのようによみがえり、まさに「ワンス・アポン・ア・タイム」でした。

そして35年前に抱いていた疑問が鮮明に蘇りました。久しぶりに見てもやっぱり生ゴミ収集車の謎と最後の満面の笑みの謎は完全には解けませんでした。でも判ったような気もします。

前に見た時よりいろいろなことが判りました。DVDなので同じシーンを繰り返し見たり、日本語字幕と英語字幕を切り替えて英文で意味を考えたり、場面を止めたりコマ送りして画像をしっかり見ることができるからです。

それと、「完全版」には解説や製作ドキュメンタリーも収録されていましたので、それらも見て参考にできました。

判ったことがたくさんあったので列挙します。私なりの謎解き、解釈も展開していきます。



生ごみ収集車にベーリー長官が飛び込んだのか

映画の後半。ヌードルがベーリー長官(若いころのマックス)の邸宅の裏口から出ると、夜の道端に大きな生ゴミ収集車が停まっています。エンジンはかかっていません。

不思議なシーンです。

ヌードルが歩き出すと、邸宅の裏口から誰かが出てきます。服装はベーリー長官と同じですが一見してベーリー長官ではないような気がします。このシーンは何回もコマ送りして見ましたが、ベーリー長官、つまりかつてのマックス役を演じたジェームズ・ウッズではありません。

ドキュメンタリーでのジェームズ・ウッズの証言

DVDに収録されていたドキュメンタリーの中でウッズは「セルジオ監督は映画を見た観客を戸惑わせるために、わざわざ別の役者を使った」と語っています。私の思ったとおりでした。

さて、ベーリー長官と同じ服装の男性が邸宅から出てくると、不意に生ゴミ収集車のエンジンがかかり、収集車は前進しだします。

非常に奇妙なシーンです。

男性は収集車の横を歩き、彼が車の背後に隠れた直後に生ゴミを砕くような爆音がなります。

収集車がヌードルの横を通り過ぎます。ベーリー長官の服装の男性は見当たりません。まさか生ごみ収集車に飛び込んだのかと思って収集車の後部を見るヌードル。

振り返って邸宅の裏口も見ます。そこにも誰もいません。目を戻し、ずっと収集車の後部を見続けるヌードル。

ドキュメンタリーの中のウッズは「あれが誰だったかは見た人の想像に任せる」とセルジオ監督が言っていたとも語っています。

さらにウッズは「ひとつはっきりしているのは、マックスは翌日の夕食に現れないということだ」とも言っています。大幅にカットされたシーンの中に、翌日の夕食にベーリー長官が現れない場面があったのでしょうか。

「あれが誰だったかは見た人の想像に任せる」と言うのなら勝手に想像するしかありません。



ベーリー長官はヌードルに断られることを知っていた

生ゴミ収集車が偶然そこに停まっていて動き出したはずはありません。あらかじめ準備して手はず通り動き出したに決まっています。

誰の手はずか。ベーリー長官の手はずです。

ベーリー長官は自分殺しをヌードルに頼みました。しかしヌードルに断られると思っていたのでしょう。復習とはいえ、殺人でまんがいち捕まればヌードルが損をします。普通は断ります。

だからヌードルに断れた後の準備をしておいたのです。

マックスはまたも替え玉に死んでもらい、第3の人生に進もうと思っていたのではないでしょうか。

ヌードルに殺されるなら本望、ヌードルが断れば第3の人生。

「きっとヌードルは断る。断られたら、ヌードルの目の前で死んだフリをする。そして自分はまったくの別人、第3の人物として生まれ変わる」と決めていたのではないでしょうか。

生ゴミ収集車の運転手は爆音に気づいても止まりませんでした。金で雇われた人だからです。生ゴミ収集車に飛び込んだのは替え玉になって死ぬ契約をした人でしょう。借金で首が回らなく、死ねば家族の面倒を一生見ると言う約束で契約したのかもしれません。

ベーリー長官がいなくなれば捜査は直前に会ったヌードルに向きます。マックスは自分が死んだことをヌードルに証言させたかったのでしょう。生ゴミに粉砕された遺体では誰だかわかりません。服装で判断するしかないでしょう。

35年前と同じトリックで第3の人生を歩むマックス

35年前に使ったトリックと同じです。

そして今回も35年前のように自分の部屋から双眼鏡でヌードルの慌てる顔、悲しむ顔、泣く顔を見ていたに違いありません。

直前のベーリー長官との会話シーンで、ベーリー長官はヌードルに「おまえの目は涙でにじんで丸焦げになったオレの顔まで確認できなかった」旨話しています。

その会話シーンでもヌードルの目はしだいに涙であふれ、最後は拳銃もぼんやりしか見えません。

涙いっぱいの目では生ゴミ回収車に飛び込んだ黒服と蝶ネクタイの男もマックスと見間違ったのかもしれません。

2人が出会って間もなくのころ、少年ギャング団は麻薬を川から引き出すという初めての大仕事を引き受けました。川にもぐって見当たらなくなったマックスを泣きそうな顔で必死に探したヌードル。あのときのヌードル顔がマックスには忘れられなかったのだろうと思います。



ヌードルの最後の満面の笑顔の謎

さて、この映画の最大の謎は最後に見せるヌードルの笑顔です。

ドキュメンタリーの中で、当時の製作スタッフが言っています。観客がセルジオ監督に「最後の笑みはどういう意味ですか」とたずねました。監督は「あなたはもう判っている筈だ」と答えました、と。

つまり、映画を見れば判るはずだと言うのです。監督には見れば誰でも分かるはずだという自信があるのです。でも私は何回見ても判りませんでした。

この笑顔の謎について、いろいろな人がいろいろな事を言っています。

「この映画はすべてアヘンによる夢の中の物語なのだ。だからアヘンを吸って笑っているのだ」と言う人もいます。

でも私はそうは思いたくありません。すべてアヘンの夢にしてしまったら何でもありです。

私は最初にこの映画を見たときには、映画の最初に出てくるアヘン窟のシーンと映画の最後に出てくるアヘン窟のシーンは別の日だと思いました。同じ日なら、仲間の死を見た直後です。いくらアヘンを吸ってもあれだけ笑えるわけがないと思ったのです。

ヌードルは若いころ、たびたびアヘン窟に行っています。だからラストシーンは、まだ仲間3人が死ぬ前の日常のアヘン窟でのひと時、まだみんなが幸せだったあの日を描いたのだろうと思っていました。

最初のシーンとラストシーンは同じ日

ところが今回よく見ると、最初のシーンと最後のシーンはヌードルの服装もネクタイも全て同じなのです。違う日ならネクタイを替えてもいいはずです。

しかも、ラストシーンのアヘン窟でのヌードルはしんどそうです。帽子を脱ぐにも時間がかかっています。

どう考えても同じ日だと判るように作っています。

この日の出来事を時系列にまとめると次のとおりです。

  1. アヘン窟に入るしんどそうなヌードル(ラストシーン)
  2. 一服吸って満面の笑みを浮かべる(ラストシーン)
  3. アヘン窟の主人に起こされる(以下冒頭シーン)
  4. 新聞には仲間3人が殺されたと書いてある
  5. そして雨の中の3人の死体を思い出す
  6. ギャングがアヘン窟を探しにくる
  7. ヌードルはアヘン窟の従業員の助けで逃げる

間違いなく、仲間が殺されたことを知った上での満面の笑顔なのです。これはいったいどういうことか。



仲間3人はどうして死んだのか、誰に殺されたのか

ここからは私の想像です。

マックスの情婦であるキャロルがけっこうな曲者です。

マックスを助けるためだとキャロルにそそのかされて禁酒違反を警察に密告したヌードル。しかしキャロルはマックスにも事前にヌードルの密告を知らせていました。

あるいは、最初から全てマックスの書いた筋書きだったのかもしれません。

キャロルがマックスとも通じていたことは、後に老いたキャロルがベーリー財団の寄付で立てた病院か老人ホームかの施設の世話になっていることで明らかです。

さて、ヌードルの密告で警察が踏み込みます。

3人がどうして死んだのか、誰に殺されたかは判りません。DVDの解説では別のギャング団に殺されたとしています。ネットでは警察との銃撃戦だと言う人もいます。連邦銀行を襲撃して撃たれたとの解説もありましたが、それは違うと思います。そこを襲撃させないための密告だったのですから。

ただ、いずれにしても相手に先手攻撃して銃撃戦にします。そしてあらかじめ用意した焼け焦げた替え玉を現場に残し火を放ち、マックスは姿を消したのです。仲間2人は銃撃戦の中、とばっちりを受けて死にました。

マックスはなぜ死んだフリをしたのか

マックスには上昇志向がありました。いつまでもギャングのような仕事をせずに、もっと大きなビジネスに進みたかったのです。

いっぽう、ヌードルはビジネスより仲間が大事でした。どの組織とも組せず、仲間だけでまとまっていたかったのです。

このままではヌードルとの衝突は避けられないと悟ったマックスですが、ヌードルを切るわけにもいきません。悩んだあげく自分は死んだことにして、まったく別の人生を歩むしかないと思ったのではないでしょうか。

そう考えると連邦銀行を襲う話は最初から嘘だったのかもしれません。だとすれば密告の筋書きもマックスが考えキャロルを動かしたのかもしれません。

でも、キャロルが2人の仲を裂こうとして企てた浅知恵にマックスが途中で気づいて、うまく利用したという可能性も残ります。



ヌードルはなぜラストシーンで笑ったのか

最後のシーンでヌードルはなぜ満面の笑みをもらしたのか。仲間3人が死んだと思っているはずなのに。

邪推ですが、仲間思いのヌードルもほんの一瞬だけ、お金が転がり込んだことを喜んだのではないかと思うのです。

3人が死に、がっくりきているヌードル。帽子を脱ぐにも時間がかかるぐらいです。そして疲れた体を寝台に横たえて、アヘンを夢中で吸います。

アヘンか効いてきて気分が良くなった時に、一瞬だけ良からぬ喜びがこみ上げてきます。

「だけど、考えてみたらこれであの金はすべてオレ1人のものになったということか」と。

そう考えたくないのですが、人間には2面性があるといういことをこの映画は言いたかったのではないかと思うのです。

ヌードルも決して「良い人」ではありません。デボラを車の中で犯すような人なのです。ヌードルにはやさしい面と乱暴な面の2面性があるのです。

はからずも大金をひとりじめにできるようになって思わず笑ってしまったのではないでしょうか。

ギャングがアヘン窟を探しに来て、従業員の助けで逃げたヌードルはファットモーの店に行きます。モーはギャングのリンチにあっていました。ヌードルは時計の鍵を取り、心配するモーに「金は充分ある」と言います。モーも「全てヌードルの金になった」と言います。

やっぱりこの時のヌードルの頭の中は金のことでいっぱいです。

ベーリー長官との会話

話はベーリー長官との会話に戻ります。

ベーリー長官=マックスが自分の罪をすべて打ち明けて自分に復習するよう言います。ベーリー長官は自分を撃てとヌードルに言います。

ベーリー長官の話をしばらく黙って聞いていたヌードルは最後にこんなことを言います。

「ベイリー長官。私にも昔話があります。あなたの話よりもっと単純です。大昔、親友がいました。命を救おうと思って密告したのに、彼は殺されてしまいました。でも彼は殺されるのを望んでいたのです。いい友情だっと思います。でも結果としてそれは彼にとって悪いことでした。そして私にとっても悪いことでした(It went bad for him,and it went bad for me too)」

あの時キャロルのそそのかしを無視して密告なんてせずに一緒にやっていれば良かったという意味なのでしょう。

こうもとれます。

あの時、あんな密告をしたばっかりに、マックスは仲間を犠牲にして金を独り占めした。でも、私もほんの一瞬だが、みんなの金が自分ひとりのもになったと思って喜んでしまった。そしてロッカーの金を取りにいった。中は空っぽだったけど。

私も同罪なのだ。

キャロルの口車に乗せられて下手な駆け引きなどせず、正直に2人で話し合うべきだった。

やっぱりキャロルが2人の仲を裂こうとして策略を考え、マックスがそれを利用しちゃったのかもしれません。

セルジオ監督が亡くなって諸説あり

この映画はとても難しい映画です。しかも作者であるセルジオ・レオーネ監督は、なにも説明せずに他界しました。

よって今でも各シーンの解釈には諸説あり、論争となっています。ネットで検索してもいろいろな解釈があります。

私の解釈も単なる想像と独断によるものなので、間違っているかもしれません。

ただひとつ確実なのは、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカという映画は封切りから35年経った今も色あせることなく魅力的で印象的な映画だということです。

懐かしく思うかたは、これを機会に再度ご覧になってはいかがでしょうか。そして新解釈を発見してください。

それこそセルジオ・レオーネ監督の望みなのだと思います。

ごきげんよう。


【関連性の高い記事】



この記事があなたのお役に立った場合、下の「いいね!」をクリックして頂けると、たいへんはげみになります。

Pocket

【あわせて読みたい】


同じカテゴリーの最新記事5件


「カブとタイ」をいつもお読みいただき、まことにありがとうございます。
著者かぶとたいぞう拝。


記事のカテゴリー/タグ情報

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*